自分だけの部屋の外

ほぼ自室にいる

広島旅行2023 (5) 縮景園、広島城、広島市現代美術館

前回の続き。

昨夜は広島ならではのものを食べられなかったので、朝ご飯は地元の喫茶店でモーニングをすることにした。

あかいはりねずみでメキシカンミートボールのパニーニ。このお店では世界のおかずパンが食べられる。近所にあったら月一で通いたい。

ミートボールにロマンを感じがち

旅先で訪れるカフェには、ほぼ確実に事情通の常連おじさんがいる。そういうおじさんたちは概して忙しそうで、店主に最新事情を共有すると去っていく。ここにもそんな風情の先客が来ており、去っていった。長居はしないのだ。

広島浅野藩の初代の殿様が造って400年の縮景園。どの角度から見ても絵になるお庭で、とてもよかった。植栽が維持されているだけでなく、四阿やベンチがきれいに掃除されている。隣接する県立美術館とのコラボ企画で、あちらこちらに「化石化した」人形や日用品がそっと置いてあった。

www.hpam.jp

キューピーちゃん

ウサギと車椅子

お庭から県立美術館に入り、縮景園や広島の歴史のパネルを見ることができる。今回は時間が足りず、美術展はスキップ。次回はお庭とセットで見学したい。

毛利→福島→浅野と領主が変わった広島城。大きなビルが立ち並ぶ区域に建っているので、こぢんまりして見える。現代の広島人が親近感を抱くのはどの家なんだろうか。お城の中に大河ドラマ毛利元就』の一角があるところをみると、やっぱり毛利家なんだろうか。パンフレットを読んだ感じだと、福島正則がけっこう頑張ってお城と町を整備した雰囲気だが、代替わりをする暇もなく改易で飛ばされてしまった。あまり人気がないかもしれない。

わたしが好きな壁が白くない方のお城

長野で葛飾北斎の天井画があるお寺に行ったとき、飛ばされてきた福島正則がよくひとりで馬に乗って遊びに来ていたという逸話を聞いた。けっこう人気があり、亡くなったときは村が総出でお葬式をしたらしい。時代劇で見る福島正則は勢いだけの脳筋キャラであることが多いが、なんとなく晩年の福島正則には「おつかれさま」と言ってあげたい気持ちがある。

広島の街を縦断して現代美術館へ。前夜の天気予報では「最高気温は30度程度と厳しい暑さになります」とのことだったが、連日35度越えの都民には屋外行動ができるありがたい気温だ。電車を乗り継いでも歩いても時間が変わらないなら歩く。

しかし大変な湿度の中、うっそうと木が茂る比治山の薄暗い中をとぼとぼ登っていくのは正直にいって心細かった。Googleマップはときどき微妙なルートを提示してくるが、今回ほど「本当にこの道がベストなのか」と葛藤しながら歩いたことはない。そしてベストかわからない道の先に美術館があった。

黒川紀章による設計

次回へ続く

『舞台・エヴァンゲリオン ビヨンド』を観た

www.bunkamura.co.jp

エヴァンゲリオンが「お父さんの組織で14歳の息子が辛い目に合うロボットもの」ということだけ知っている状態で、配信で舞台版エヴァンゲリオンを観た。舞台版は窪田正孝がすごいらしいと聞いていたので、アニメの前に観たほうが楽しめるかもと考えたのだ。『平清盛』にしても『ある男』にしても、窪田正孝は苦悩する役がほんとうによい。エヴァンゲリオンなんだからきっと苦悩する。

話の流れはわりとまっすぐで、中学生が学校の芸術鑑賞会で連れていかれそうな内容だった。エヴァの世界の基本設定を借りた的なSDGs勧善懲悪もの。エヴァンゲリオンは子供たちの未来のために地球を大切にしよう!っていう話じゃないですよね? 舞台版はそういう話だった。エヴァ関連作品だってだけで観るには辛いと思う。

じゃあ見どころはどこだったかというと、

  • 石橋静河:いろいろ暑苦しく単調になりそうな台詞をごり押しせずメリハリよく回していて気持ちよかった。
  • ダンスによる情況表現:身体をフルに使いこなせると人間じゃないみたいな動きができる。序盤に登場する肌色のマスクのダンサーの動きが異様で目が離せなかった。
  • 洗練された舞台装置:後半「PCの壁紙みたいだな...」と思い始めるくらい濁りも綻びもなく、予算の制限を感じさせない。ごちゃごちゃしそうなところはモノではなく人で代用する。ダンサー2人でセキュリティゲートの開閉を表していたのがおもしろかった。
  • 窪田正孝:他の登場人物と比較して役柄に複数の要素があり、表情に幅があって見ていて飽きなかった。しっかり主演だった。受動的でなく苦悩する役の窪田正孝は初めて観た。なにかいろいろ感想が出てくるべきなのだが、最後の踊りのシーンで「上腕筋すげえな!」となってだいぶ吹き飛んだ。あの筋肉がないと成立しない舞台だったはずなので、筋肉は称えるべきなのだが。

ということで、演出のシェルカウイ、窪田正孝または石橋静河、またはダンスが好きならいけそう。WOWWOWでの配信は9月2日の夜まで。

広島旅行2023 (4) 錦帯橋と岩国城

前回の続き。

県境を超えて山口県岩国市へ。押し寿司好きとしてこれが食べてみたかった。

岩国寿司

岩国寿司

ぎゅっと押し固められたちらし寿司であり、味は見た目どおり。ただし押し固め具合がいわゆる押し寿司よりずっと強い。ご飯の粒がおはぎや五平餅くらい一体化していて、ずっしりしている。

メニューに岩国寿司一切れとお吸い物のセットがあり、さすがにそれではさびしかろうとほかにもお皿が付く定食を注文した。とはいえ一切れの岩国寿司は在宅勤務日の昼食であればじゅうぶん足りる密度だった。サトウの切り餅換算なら3、4個分はあった。

切符を買って、錦帯橋を渡る。

錦帯橋

錦帯橋。おおむね木造。技術!

200メートルある川にかかるだいたい木造の橋。古い木造建築といえば寺社仏閣で眺めるものなのが常なのにたいして、こちらは歩いて渡れる。実用性がある。

錦帯橋の欄干

微妙に浅い階段を上り下りする。つまずきそう

江戸時代だと、この大きさの木橋をつなげて使うための計算はどうやってやったんだろうか。架け替え時のノウハウはどうやって引き継いでいるのか。そのあたりの説明はなし。渡って楽しむ。

橋を渡ると吉香公園。周りは元武家屋敷らしいひろびろしたところだ。

お城の石垣風の見晴らし台がありつつ全体的にはモダンな公園

錦帯橋を建てた吉川藩の三代目

殿さまの向こうに、ふもとから見えるように位置をずらして戦後に再建された岩国城が見える。予算がない中ようやく建てたお城を、一国一城令のせいで築七年で壊すことになったらしい。お気の毒だ。

ロープウェイで登ってさらに15分歩くと、岩国城にたどり着く。ロープウェイ待ちの列に米語を話す観光客が多かったのだが、そういえば岩国には海兵隊の基地があるのだった。

岩国城天守閣からの眺め。錦帯橋の規模を実感できる

川幅200メートルの錦川がうねうね蛇行しながら瀬戸内海に流れ込んでいる。東京育ちにはうねうねした川が珍しい。こんな眺めを毎日見ていたら、城下を栄えさせなければとやる気も出ただろう。

お城を観終わったらもう各種施設の閉館まで間がなかった。岩国徴古館で主に吉川家と錦帯橋の展示を見て、岩国観光終了。白蛇や宇野千代まで手が回らなかった。残念。

岩国徴古館。昭和17年起工、20年完成

錦帯橋近くから岩国駅に戻るバスで「みんくる」に遭遇してハッとした。

都営バスが岩国で第二の人生を送っていた

岩国から広島まで電車で50分。駅ビルで軽く食べたかったのだが、大規模工事中の広島駅南口は、初見では攻略不可能だった。おとなしく福屋駅前店でお惣菜を買って、ホテルに向かった。

次回へ続く

広島旅行2023 (3) 厳島神社と千畳閣

前回の続き。

厳島神社の狛犬

厳島神社狛犬は海を見ている

予定(野望)では、満潮時、宿の朝ご飯タイム前にお参りするはずだった厳島神社。初日に寝不足だったこともあり、目覚ましをさらりと止めて二度寝してしまった。自分に甘いタイプの人間の一人旅は弱い。

チェックアウトして2時間遅れでお参りすると、かろうじて大鳥居は海に浸かっているものの、潮はだいぶ引いていた。

厳島神社入り口

消毒液でお清め

それでも朝8時半前なので、参拝者が少ない。宮司さんや補修工事の職人さんが、朝のルーティンをこなしている様子。まだ誰も疲れていないし床に何も落ちていない。さっぱりして気持ちが良い。

厳島神社の能舞台と大鳥居

新しい朝の能舞台と大鳥居

朝からやる気を見せる参拝客が3組ほど、静かに列を作って写真を撮っていた。大鳥居に向かって突き出した平舞台の先端に大灯篭が立ち、厳島神社らしい構図になっている。灯篭は17世紀に奉納されており、平安時代にはなかったようだ。

厳島神社社殿

奥に見えるアレ。床がきれい

大河ドラマ平清盛』で、大灯篭をバックに清盛と盛国が会話するシーンがあったような気がするのだが、記憶の中の松山ケンイチ上川隆也はわたしが捏造したやつかもしれない。しかし灯篭がなかったとしても、カラーリングが神社な寝殿造の建造物を建てたのは清盛なので、やっぱりすごいなあと思うのだった。

なにも省略せずにゆっくり見て回って退出。

キッコーマンとヒガシマル醤油からのお供え

うどんスープの素ではなく醤油が奉納されていた

厳島神社宝物館で平家納経のレプリカを見る。レプリカといってもなんらのっぺりしたところはなく、お経が書かれた紙も水晶製の軸も立派な造りのもの。お経を収めたときの清盛の言葉がパネルで解説されていたが、「俺はやり遂げた、あとは適切に運営していくだけ」という満足感が漂っていた。そんな人が亡くなって4年で一族滅亡なのだから、呆れる気持ちとかわいそうな気持ちが半々だった。

千畳閣。秀吉が作りかけて終わった神社だが、なにせ秀吉なので瓦に金箔が貼ってある。安土桃山時代感がある。作りかけの木造建築でも、作りが良ければ何百年も倒壊しないもののようだ。

千畳敷の屋根

天守閣っぽいデザイン

千畳閣内部

柱が堂々としていて作りかけでも寂しくない

壁がないので風が抜ける。テラス上になっている外周をぐるりと歩くと、海の青、山の緑、厳島神社の赤が目に入る。宮島観光を締めくくった気持ちになった。

フェリーに乗って宮島口へ。

宮島桟橋から宮島口方面へ向かうフェリーからの眺め

2社のフェリーがじゃんじゃん往復している

次回へ続く

広島旅行2023 (2) 大鳥居と宮島歴史民俗資料館

前回からの続き。

平清盛の銅像

2014年の設置。前回はいなかった

宮島に到着。雨粒がぼたぼた落ちるなか、清盛像が出迎えてくれる。物見遊山に来た者を迎えるにはわりと厳しい顔つきをしている。子弟がいろいろ下手を打ったせいでカリカリしていたころの清盛に見える。漫然と遊びに来てしまって、ほんの少し申し訳ないような気持ちになる。

厳島神社に向かって遊歩道を歩く。干潮で海水が引いている。いわゆる磯の匂いではなくて、青海苔のおいしそうな(!)匂いがする。浜辺に「貝は1人1升(3kg)以内とします」と立札がある。ふだん家で貝を食べない者には、食べ放題の量に思われる。

厳島神社の大鳥居

桟橋から歩き始めるとすぐに大鳥居が見えてくる

潮の具合は大鳥居まで歩けるほど浅くないが、できるだけ近寄って写真を撮りたい外国からの観光客が何人も海に入っていた。ざっと眺めたところだと日本人はいなくて、そうなんだ、という感じ。

厳島神社の大鳥居

30度左を向くと実はおおぜいの人が海水に浸かっている

日本人にとって、大鳥居は脚を濡らしてまで近づきたい映えスポットではないのかもしれないし、波打ち際を境界線として遠くから眺めておきたいものなのかもしれない。この日この時間にそうだったというだけなのでなんともいえない。わたしだって水が引いていれば喜んで歩いて行って柱をぺたぺた触ってみたりしただろうから、何が「そうなんだ」なのかわからなくておもしろい。

干潮時の厳島神社

着いたときは潮が引き切っていたので、神社は翌日に行くことに

宮島歴史民俗資料館へ。資料館正面の雰囲気から想像していたよりずっと盛り沢山で、閉館時間ぎりぎりまで1時間以上過ごしてしまった。歴史も建物も祭祀も話の種が豊富なのだ。地元の小学生による宮島の民芸品の紹介の展示はテレビショッピングの口調でなにかと購入を勧めてきて愛らしかったし、中学生が作った厳島合戦の布陣図は力がこもっていた。

杓文字は宮島が発祥の地だという。願掛けの文字が刻まれた大小の杓文字が下がっているのを見て、岸田首相がゼレンスキー大統領に杓文字を送ってしまった気持ちはこれなのか、と思った。これはわかる人にしかわからない。報道があったときは「何で杓文字???」とびっくりするだけだったが、全然わかろうとしなくて悪かった。それにしたって、わかろうとしないとわからないものを贈るのはどうかと思うけれども。

宮島歴史民俗資料館

19世紀前半に建てられた商家が転用されている。格子が美しい

宿への帰り道で、なんの気配も出さずに鹿が反芻していた。

道端で反芻する鹿

寄ってこないのが好ましい

次回へ続く

 

広島旅行2023 (1) ひろしま世界遺産航路

春先に大河ドラマ平清盛』を観た。今年のテーマは「現代語訳でいいから『平家物語』を読む」なので、○盛だらけの平家一門の区別がつけられるように。結局忠盛を「パパ盛」と呼び、頼盛を「弟盛」と呼んで全50話が終わってしまったが、夏休みの旅も十数年ぶりの宮島再訪に決めたのだった。

前日は楽しみ過ぎて4時間半しか眠れなかった。ふだん8時過ぎまで眠っている人間が7時前に家を出ないと新幹線に間に合わないので数日前から早寝早起きを進めていたが、悪あがきだった。新大阪を過ぎるまでうとうと眠っていたので、広島までの4時間弱は短かった。静岡では完全に眠っていたので富士山が見えたのかどうかもわからない。

ふつうに宮島口まで電車で行ってフェリーに乗り換えると10分しか海上にいられないので、ひろしま世界遺産航路という船便を予約してみた。平和公園から宮島へ直接行けるし、45分も水上にいられる。どの街に行っても観光クルーズをやりたい者としては乗らないわけにはいかない。周回コースが多いクルーズ船で、実際にその日の目的地に着けるというのもポイントが高かった。

路面電車平和公園に着くと、船乗り場へ行く途中に原爆ドームがある。ゆがんだ鉄骨が補強されている。教科書や新聞に載っている写真から想像していたより、やっとのことで建っている、はかない建物だった。

原爆ドームはもともと県立のコンベンション・センターだったそうだ。戦前は賑々しい施設だったものが、世界規模の戒めの記念碑になっている。広島の人たちは原爆ドームを目にするたびに1945年8月6日に引き戻されるだろうに、これを残しておこうと決めたのはたいへんな決断だったろうと思う。

原爆ドーム

だれも大声で話さない、静かな場所だった

ドームを見ながら川沿いを歩くとすぐに船着き場に着く。

ひろしま世界遺産航路乗船場

ひろしま世界遺産航路の船。平日だからか空いていてのんびりしている

程よい乗客数で、窓側にゆうゆう座れた。遊覧船ではないので余計な観光案内がないのがよい。川を進む間は基本的にデッキに出られることになっているが、この日は水が少ないから船内にいてくださいとアナウンスがあった。船から落ちたときにけがをする可能性があるかどうかが分かれ目らしい。

海に出ると航行速度が上がり、ときおり船底が海面に「バン!」と叩きつけられる。けっこう大きな音がする。折れないものだなと思う。窓の外は雨で灰色の濃淡が続いたが、一瞬だけクールベの絵のようだった。

宮島へ向かう高速船の窓からの眺め

雨雲の下から抜け出た頃

次回へ続く

マティス展

東京都美術館マティス展に行ってきた。

近代美術の展覧会に行くとたいてい1枚はあるマティス。縦長の窓の外に景色が見える絵はわりと好きだ。

東京都美術館正面

湿度100%の東京都美術館

ありがたいことに東京都美術館は時間予約制を継続しているので、空いている作品から見ていけば渋滞しなかった。距離を取って全体を、近くに寄って刷毛の跡を眺めることができる。いろいろな趣向の、縦長の窓の外に景色が見える絵がいくつもあった。マティスは画家人生の各段階で、計画的に意識的に新しいことを実践しているように思われた。志があり成果を出した人だった。

ただマティス先生には全面的に称える気になれないところがある。非本業の丸投げ問題だ。マティスはアシスタントで入ったリディア・デレクトルスカヤをモデルに使った。彼女は敏腕マネージャーとしてもマティスを支え、そしてその後の展開はリディアの名前で検索するといろいろ出てくる。マティスはリディアを大切にし、公私ともにあれこれとお任せしたんだろう。そして彼女のサポートに安心して、芸術を追求したんだろう。ただ検索するといろいろ出てくるのでもやもやするのだ。

ところで、会場の多くの肖像画が、描かれた側は喜ばなさそうな絵だった。モデルの欠点(と画家が思っている要素)を見逃していない感じがある。

それなのに、肖像画ではないからなのか、リディアがモデルの《夢》はやさしいすてきな絵だった。《夢》の女は完全にリラックスしていて、深い呼吸をしている。画家に凝視されていても、何も不安なことはないように目を閉じている。実際に不安がない時期だったのかもしれない。

マティス《夢》のための習作 1935年

《夢》のための習作。こちらの女は画家を見つめている

自画像もいくつか展示されていた。気難しい完璧主義者に見えた。マティスは自分の嫌な面を忘れずに、一生かけて表現を追求した人なんだろうと想像した。わたしのもやもやを勘定に入れても、巨人のサイズはほんのぽっちりしか縮まないのだった。

ミュージアムショップ。展覧会より混んでいたのはご愛敬だが、実際いろいろ売っていた。「せっかくだからちょっとしたものを買いたい」願望をちょうどよく満たしてくるポストカードと広島レモンケーキのセットを買った。480円。

レモンケーキとカフェオレ

広島レモーネをチョイス。翌日の甘い朝ごはんになった